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「必要なものは既に全て与えられていますよ」

街路樹や朝日にえもいわれぬ愛おしさを感じるとき、つまりそれが私にとって必要なものであった。
すれ違う人々が穏やかでも、言い争っていても、みんな同じように人間で、みんな同じように必要なものは既に全て与えられているのだと思った。
だから誰が何をしても自由だ。それを既に与えられているからである。

私は昔、松尾芭蕉で合唱曲を2曲ほど書いたことがある(未発表)。
17音に必要なものが全て含まれているわけで、そこから行間・文脈を読みさまざまなもの・ことを感じ取り、その世界に思いを馳せる。
もちろん行間も文脈も読まなくたっていい。感じ方は自由だ。私たちはそれを既に与えられているからである。

休日にふらふらふわふわと行きたいところを巡り、そこで好きなことをしたり好きなものを食べたりする。
心が穏やかで満たされて、特別に幸せなわけでも特別に不幸なわけでもない。平和で平穏である。
周りが平和なら私が平和なのではなく、私が平和なら周りもみんな平和に見えるのかも知れない。

この日、たまたま寄った本屋で見つけた本がこれ。

ピーター・J・マクミラン 『松尾芭蕉を旅する』

そういえば最近本を読んでいなかったな。と、思ったためふんわりと購入。
少しずつ少しずつ読み進めている。

芭蕉は旅の人であった。
私の旅のイメージは、(現代の旅行・観光とは違う古代の旅のイメージだが)とても寂しいものだ。
古の頃、旅に出たくて旅をする人がどれほどいただろう?
「そこにいられないから出て行かざるを得ない」「決められた場所に行かなければならない」など、愛する人々や故郷と離別する寂しさ、悲しさ、帰ってこられるかわからない不安、そういったものを思い浮かべる。
もちろん道中不便で野宿する必要だってあったろう。雨や雪の中でも歩かなければいけない、そう歩くしかない。

宮城谷昌光の『重耳』を昔読んだ。確か、帯に「放浪の公子」の二つ名(と言うべきか?)が書かれていたと思う。それをも思い出した。
弟が古代中国・晋の主となったため、兄である重耳は出奔せざるを得なかったのだ。その重耳こそが後に「晋の文公」と呼ばれた名君になったわけだが。
もう一つ、昔占いに凝っていた頃、易経で「火山旅」という卦があったのも思い出される。まさに旅とはわびしく寂しいものであり、今は放浪する時である、みたいな意味を持っていたと思う。

まあ、芭蕉の時代は江戸時代の日本。宿場町だって整備されている。
しかしもちろん現代の「旅行」「観光」と旅は全く違う。「安心」「安定」とは逆の位置にある。
芭蕉の旅の目的はわからない(諸説あるとされる……)が、そういった不安定な状況の中にも、美しい緑やわびしい風景にえもいわれぬ愛おしさを感じ、古の人々に思いを馳せ、その感慨を17文字にしたためることが、彼の心を平和で平穏にしていたのではないか。

(まあ、私が行間を読んだ結果なので、実際にどうだったかは全く不明なのだけれど。)

(これが彼にとっての必要であり十分であるのなら、とても喜ばしいことだ。)

(私もそれを目指したい。)

――さて、この本を読むにぴったりの店を見つけた。

何がどうぴったりかって、「読書割」なるサービスが存在するからである。

読書好きのための読書割

私が本を読むのは大抵電車の中なのだけれど、こういうところで落ち着いて読むのも好きだ。
と言いつつ、喫茶店・カフェの場合は雑誌が置いてあると雑誌を読んでしまうし、なんだかんだでスマホも見てしまう。
こういう、完全に読書のための時間・空間は、集中して読むのにとてもよい! と思った。

そういうわけでケーキセットを注文。
タルト好きなのでタルトだが、プリンも固めでとても美味しい。
(しかしハッピーアワーセット(お酒とおつまみ)までOKだなんて太っ腹だな、、、)

著者のマクミラン氏はかのドナルド・キーン氏の教え子とのこと。
読むだに、日本人の(というか、私の)忘れた日本への憧憬をこれでもかと胸に感じさせてくれる。

今の時代は、こういった日本文学と英文学(英訳)のエッセンスを、ケーキ食べながらコーヒー飲みながら座って楽しむことができるのだな。
不自由さなど全くない。まさに旅とは真逆。
それがいけないのではなく、その恩恵に感謝したい。このお店も、ケーキやコーヒーも、この本だってみんな、様々な方々が少しずつご自分の働きを積み重ねて成り立っている。もちろん芭蕉が江戸時代にいてこそでもある。
私は、それら恩恵の上澄みを頂戴しながらこの記事を書いている……。
そして、もしかしたらそれが誰かの心に何かを届けるかも知れない。

マクミラン氏はしばしば文中にて、芭蕉が西行を敬愛していたことに触れていた。
芭蕉の句「何の木の花とはしらず匂哉」について、下記のように述べている。

西行が詠んだとされる「何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行法師家集)という歌を踏まえ、伊勢神宮の言葉に表せないほどの神々しさを象徴するものとして花の匂いが詠まれている。
(中略)
「何事のおはしますをば知らねども」という西行の歌は、何に対する感動であるのか明言されていないにもかかわらず、「涙こぼるる」という結びとあいまって、何とも言えない神々しさが見事に表現されており、明言しないことがむしろ効果的である。芭蕉の句には、言外に西行の「涙こぼるる」という感慨を読ませる意図がある。(後略)

ピーター・J・マクミラン『松尾芭蕉を旅する 英語で読む名句の世界』講談社

街路樹や朝日にえもいわれぬ愛おしさを感じるとき、それはもしかすると西行の云う「かたじけなさ」に通ずるのかもしれない、と思った。
いないようで、おはします。それを感じる準備が整っているとき、つまり必要なものは既に全て与えられていることを知っているときに、その存在は「おはしま」し「かなじけなさ」を覚えるのだと思った。
伊勢に「おはします」存在と、街路樹や朝日の愛おしさというのは、相通ずるのだと思った。
そして、平和や平穏とも似ているのかも知れない。

望めば準備は整うし、準備が整えば感じられる。
望むか望まないかは自由。
旅という不安定な状況の中でも、望めば平和や平穏を感じられるし、それこそが伊勢に「おはします」存在であるのかも知れない。伊勢にいなくたって。

以上ポエム!

固めのプリンはこういう感じです。
あと、今はイチゴのフレンチトーストもやってると思います。確か。行ってみて下さい。

んー!! 幸せ!!
必要なものは既に全て与えられているから、こうして過ごす時間もケーキも何もかも全て与えられたもの。
無駄なものなんて何一つないのね。

ケーキを食べたから幸せ、平和、ではなく、幸せで平和、平穏だからケーキのおいしさとありがたみを感じられてもっと幸せになれるのだと思う。
望めば誰だって幸せや平穏を与えられる。私たちはその自由を既に与えられているからである。

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