この詩↓について
厳しい冬の寒さを経てこそ春の花が咲く。冬には既に春が含まれている。
ふきのとうが顔を出すとき、覆い被さっている雪をよいしょと持ち上げるように。(大岡信の「時間」が思い出される)
その時、人間は努力していない。自然の巡りの中で「自然に」そうなる。
人間の努力は人間のエゴの一種だと思う。それが悪いわけではないけれど。
それらの感覚を人間同士の関係性やコミュニケーションに当てはめるのは不自然に思われるかも知れない。
つまり人間同士の関係性において努力しないのか、というお話だ。
関係性における努力は、愛であったり、エゴであったりする。
愛なら感謝、お返し(還すというのは相手に返すだけではなく世に還すことをもイメージしている)、より暖かい関係性に繋がるが、
エゴはつまり相手のコントロールである。
主人公がそのコントロールを手放しより自然に任せることを選ぶことをこの詩では表現している。
もっとも、そういった愛もエゴもいずれも全て含めて「自然」なのかもしれないけど。人間も自然の一部。(これは次の詩「雪融け」で書いた)